501×150
この間だっけ? ヨツールやモルソーが160周年だったのって。
ストーブじゃないけど、リーバイス501が150周年らしい。
中学の時、燦然と輝くその501という3文字の数字はイヤというほどポパイで刷り込まれた。
そのベーシックであり、レジェンドであり、誰もが通るその道としていつそれが自分に来るのか待ち構えて過ごし、やっとその時が来た。
それは16歳の冬。
脚を通して衝撃を受けた。
脚が短かすぎて笑。
ポパイが嘘つきなのか、僕の脚の長さが嘘なのか、とにかくどうやって履いていいのか全くわからないレベルだった。傑作であり基本であり伝説であるそれに出会った日に嫌われた少年は、簡単にその想いを諦めきれるわけもなく、
履いていたら似合ってくるという法則や、見慣れていないだけの法則、と自分の伸びしろだけを信じ、
しっくりこない、、モテない日々を過ごした。
高校の時は苦肉の策でオーバーサイズをロールアップして履いたりしてたけど、19歳の時にそれらのモヤモヤ全てを解決するアイテムに出会う。
それはブーツ。
トニーラマの黒いのが先で、その半年後にチペワのエンジニアをアメ横で手に入れた。
ブーツとジーンズとなんといっても自分との組み合わせに感動してそれからずっとジーンズだった。そしてどんな時もブーツだった。
日々の動き、日々の臭い、日々の汚れ、日々の汗、日々の血も涙も何から何まで上書きしていきながら、自分という表情、自分の今、そして生き様をアップデートしていくそれに夢中だった。
今考えると地べたに座ってしまおう、とか汚れるからできない系の制限がない生活は心地よかった。なんと座れば座るほど、汚れれば汚れるほどかっこよくなるなんて、
今でも奇跡に近いかと思う。
今は座んないけどさ。52歳だから笑。
汚れてボロい太ももが自分過ぎて大好きだった。
どうしても25歳の自分がピンと背筋が通った服を着るように感じれなかった。そういう”中身”が無さ過ぎて。
着たとしても違和感はあったな。
だから20代後半になってチノパン履いたり、、。正確に言うと、チノパンを履きたかったのではなく、汚れた藍の太ももで”居れない”時間が増えたというか。。
30になってその迷いを断ち切りまだスカスカだけど自分の道を行こうと決めて歩き出した時、真っ先にジーンズとブーツに脚を通しなおした。
久しぶり、って感じは少し似合わなくなったかな? で返されたような気がしたけど、
マインドがそっちにもどっていく感じが間違いなく心地よかった。
それから仕事も独立して2年間は作業着もジーンズで過ごした。
常にジーンズが示している先は間違っていない。
ジーンズと相思相愛になれた若者の時だったと思うし、
ジーンズがいつまでも似合うジジイにならなければいけないと思う。
しかし、150年続くものってすごい。しかも、ものすごい大きな変化なく。
そんなものって他にあるのかな。
薪ストーブだって10年でものすごく変わるのに。
そう考えるとあの時ポパイが言ってたことが分かったような気がした。